Full Count

フルカウント


揺れる風鈴。ゆっくりと首が回る扇風機。ノイズ混じりのラジオ。
舞い散る砂埃。真っ白な一塁ベース。でこぼこになったピッチャーマウンド。




低めに落ちるきれいなフォークボール。
鮮やかに打者の視界から一瞬で消えてしまう変化球。
かの有名なホームランバッター松井秀樹でさえ、
ハマの大魔神と呼ばれた佐々木主浩のフォークをボールそのものが消えたと語っている。

ラストイニング。
十二回の裏、ランナーなし。
得点差は僅かに一点。
アウトカウント二つに、ツーストライク、スリーボール。
ピッチャーは首を縦に振った。
鍛え上げた腕は高く、足を高く蹴りあげて力を溜める。
一瞬にして一閃。しなる腕は夏の陽炎のように揺らぎ、まっさらな白球がキャッチャーミットを目がけて吸い込まれていく。
浸る汗が、地面にぽたりと落ちる。
ボールはバッターのひざ元。このまま見逃せばストライク。
最終打席。バッターは四番。ここまで五打数四安打。猛打賞。
確実に出場している野手の中でバッティングに関して言えば一線を越えているレベルだ。
凡退した第一打席でさえ、運よくセンター正面の当たりを突いただけだった。
打たれたのは全てストレート。フォークボールは全くと言っていいほどバットを振らなかった。
「ふしっ!」
まるでここだけがピッチャーとバッターの世界みたいだった。
すべてがスローモーションの世界。
ピッチャーから見て、バッターは完全に打ちに来ていた。
まるで風を吸い込むように。台風の中心にいるかのように、
バッターはねじれるような体勢から、一気にひきちぎれて解放されたゴムのようにバットを降り出した。

勝った―――。
とキャッチャーは確信した。
投げたのはフォークボール。
今日の試合一回も振らなかったボール。
ボールとバットの高さは全く一緒だった。
完璧なタイミング。
しかし、ここで急にボールは落下する。
まるで何かに耐えられなくなったみたいに。重しを乗せたように。
すとん、とまるでゴムの切れたズボンのようにボールきれいに落ちた。
しかし落ちたのはなにもボールだけでなかった。
バットもまた追いかけるように角度を変えた。
キィン――と鈍い音がグラウンドを響かせる。
バットの芯から数センチ下。
当たったボールはちょうどベースの上で高く跳躍して、三塁側へと切れていった。
三塁線ファール。歓声は爆発的に広がり、そしてまた収まった。
キャッチャーは冷静に球審にタイムを要求してマウンドまで走る。
今日一度も振らなかったフォークボールを振ったのだ。
キャッチャーは冷静だった。そしてフォークを打った事で確信した。
相手のバッターはフォアボールを選べないと。

次のバッターはここまで五打数一安打。
唯一の安打もストレートを完全に振り遅れてしまい、運よく一塁後方に落ちたテキサスヒットだった。
だから四番バッターは自分が打つ以外チームの負けは避けられないと考えている。
バッテリー側もそれは先ほどのフォークを打ちに来たところで感じていた。
もちろんベンチ裏でも四番バッターは勝負を避けてもいいと明確な指示は出ていた。
バッテリーの選択はアウトコース低めにフォークボール。
それもアウトコースからボール二個分外にだ。
バッテリーとしては完全に故意四球を狙いに行く。
キャッチャーはそれだけを伝えると直ぐにホームへと戻った。
球審に軽くお辞儀をして、直ぐにポジションに付いた。
ピッチャーの握力は限界だった。
フォークボールは握力がなければ投げれないボールだ。
回を増すごとに握力は奪われフォークボールのキレを鈍る。
鈍るどころか、一瞬にして甘い球となる。
それでもピッチャーは投げた。渾身の一球。
カァン――!
こんどはバックネットにボールが跳ねる。
バッターはバットを投げ出すようにカット。
当てたこと自体奇跡といってもいい。
ピッチャーはすぐさまスコアボードを振りかえる。
球速は136km/s。
この試合抛ったフォークボールの中で最速だった。

「馬鹿だな、俺は」
ピッチャーは誰にも聞こえないように、声を出した。
深く帽子を被りなおし、キャッチャーではなく、バッターを見た。
誰も分からない事だが、この試合になって初めてピッチャーは相手バッターをしっかりと見据えた。
まるで世界の終わりと戦うかの如く、闘志に満ちた目をしていた。
キャッチャーのサインは見なかった。
後から確認した話だが、キャッチャーはピッチャーが振りかぶった瞬間にもう立っていた。
両手を上げて一塁側に大きくグラブを掲げていた。
完全にバッテリーは敬遠を選んだ。
が、ボールは一閃、真ん中のストレート。
キィン――――。
バットにボールが当たる音と、バックネット下の壁にぶつかる音はほぼ同時だった。

球場がざわめいた。
普段野球を見慣れている観客なら、すぐにサインミスだという事を考えただろう。
次のバッターは今日の試合では全くタイミングの合っていない。
ここでホームランを浴びるくらいなら、歩かせた方がいいと。
キャッチャーは暫く俯いたまま動かなかった。
ただマスクから誰にも見られなかっただけで、実際のところキャッチャーは怒りもしなかった。
悟った様な顔だった。すがすがしいと言ってもいい。
笑っていた。サインしたボールに対して、まるでキャッチャーの意思を無視したボールが抛られたのだ。
観客もベンチもキャッチャーがショックを受けているものだと思っているに違いない。

だけども違ったのだ。キャッチャーは笑っている。
三年間バッテリーを組んで、初めてキャッチャーのサインと違う球を投げたのだ。
今まで一度も首を振らなかった、不動のエースピッチャーが。
精密機械とも謳われたコントロールを持ちながら。
それがただ嬉しかった。
一方的なキャッチボール、こちらだけの要求するキャッチボールから、
初めてピッチャーからの意思を感じる事ができた。
こいつと対戦したい―――、と。
キャッチャーはもうベンチを見なかった。
そしてピッチャーにサインも出さなかった。

「いいのか?」

バッターは自分の足場をスパイクで固めながら、キャッチャーに呟いた。
この場合敬遠するなら、もうキャッチャーは座ってはいない。
先ほどの場合とは違う。バッターはあの悪球を無理矢理にでも打ったのだ。
敬遠するのなら、バットが当たらない位置で敬遠すればいい。
いくら万能のバッターでもバッターボックスを出てはならない。
それなのにキャッチャーが腰を下ろしたということは勝負をすることに他ならない。
目線はずっとピッチャーを放さない。
「たぶん、打たれるね」
キャッチャーはマスク越しに平然と言ってのけた。
バッターが見ているのにもかかわらず、ミットは真ん中に構えていた。
どちらにしろ、キャッチャーにはどこにくるのか分からないのだ。
ピッチャーが振りかぶる。
酷使し続けた腕は悲鳴をあげる。ふとももは裂けるように痛み、すぐにでも空気が抜けそうなくらいだった。
それでも一瞬。バッターから見ればピッチャーの握る白球が見えたときには、もう胸元までボールは飛びこんで来ていた。
ど真ん中ストレート。
これもファール。一塁側スタンドの上段に飛び込んだ。飛距離にして130メートルは超えているだろう。
球場にどよめきが起こる。
キャッチャーは球審からボールを受け取りながら、不思議と球場の歓声に耳を傾けていた。

十二回裏、ツーアウトフルカウント。そしてこのどよめき。
これまで野球の試合でどれだけこんな試合があっただろうか。
声援に包まれる試合もあれば、呆れられて観客が帰る試合もあった。
でもこの状況において、観客は居ても声援でもなく、
まるで対岸の波のようにノイズのようなざわめきは聞いたことがなかった。
スコアボードには148km/sと表示されていた。
今日一番どころか、こんな速度見たことあったであろうか。
球審がボールボーイを呼び、ボールを受け取っている。
バッターは地面を蹴りながら、ただ立ち続けるピッチャーをにらんでいる。
「いい、ピッチャーだな。尻上がりにしてもありえんだろう」
キャッチャーは黙ったまま首を縦に振った。
既にこの回を入れて百五十球を超えている。
尻上がりとか、そういったものではなく、
たぶんこの球はバッターの存在そのものが球速を上げているに違いないとキャッチャーは考えた。
ようやく球審からボールを受け取ってピッチャーに返球する。
ピッチャーはすぐに構えに入った。
キャッチャーからのサインはない。球審のプレイがかかれば直ぐに投げるのだろう。
バッターも既に構えている。
遅れて球審がプレイを宣言する。
まるで、二人だけの試合。
白か黒か。一塁打とか二塁打とかではなく、もっと明確とした勝負。
簡単に例えるのならば生きるか死ぬか。
限界まで捻ってから繰り出される球は、確かにこの日投げていた球とは違っていた。
まるで、一球の重みが違う。質も違う。
三年間球を受け続けたキャッチャーが思うのならば、それは真実なのだろう。

またしてもど真ん中のストレート。
ミットに吸い込まれる寸前。
キャッチャーの視界にバットのヘッドが滑り込んでくる。
まるで自動車事故のようにバットはボールに向かって衝突―――

すとん――――。

ブレーキがかかったように、ボールが直前で沈み始めた。
ストレートではなく、フォークボール。
ど真ん中から直前にしてボールは磁石の反発のように、バットから離れ始めた。

カッ――――。

音がした瞬間にボールはキャッチャーの目の前で高く跳ね上がった。
「ファール!」
球審が大きく手を広げてファールを宣告する。
今のはフォークではないとキャッチャーは確信した。
球速を見ても141km/s。これはフォークではなくて、スピリットボールだ。
正式名称、スプリットフィンガード・ファストボール。
フォークボールよりも落差は劣るもののストレートと変わらない速度を誇るボール。
おもにバットの芯をずらす狙いで使われることが多いボールだ。

ピッチャーは両手をそれぞれの膝の上に付いた。
ホームベース越しに見ても、どうみても汗の量が多すぎる。
限界だとキャッチャーは本能的に感じ取った。
今まで何人のも選手を見たからこそ言える。
これはこのままじゃ済まない。怪我では済まないと。
ぎりっ、っと唇を噛むがどうしようもなかった。
そこにはグローブの方の手を上げてボールを待っているからだ。
「っ!」
キャッチャーはボールをピッチャーへ。
そしてピッチャーはキャッチャーへ向かって投げる。
あと一回。たったあと一回。
あいつのボールをミットに収める事ができれば、終わりなのに。

振りあげる腕、高く上がった足、ピッチャーの顔は苦痛に満ちていた。
でもそれでも彼は笑顔だった。
痛みに顔をゆがめようとも、純粋に野球を楽しんでいた。
軋む身体。徐々に内に溜めていた力を解放していく。
そして指先からボールがリリースされる。
まるでその流れが美しくて、そして真夏の太陽の中で輝いていた。
渾身のストレート。
それこそプロから見ればただのストレートだったのかもしれない。
でも、このステージに置いて、一番のベストショット。

白球は空高く飛行した。



十二回にわたる攻防の末、ツーアウトからのサヨナラ劇で幕を閉じた。
ゲームセット。

ピッチャーは四番の同点ソロホームランの後、ストレートのフォアボールを出して降板。
変わって出たピッチャーは代わり端に右中間を抜けるサヨナラ安打を打たれ、
なんともあっさりな幕切れとなった。

ソロホームランを打った球は152km/s。
同点ホームランに影を潜めて消えた剛速球。
同点ホームランを打ったバッターは振り返る。
「あれは俺の負けだった」
奇跡の逆転劇に酔いしれるメンバーを余所に、彼は最後のストレートを思い出した。
マグヌス効果。
もともとストレートも変化球のひとつだと言われている。
何故なら、地球には重力があるからだ。
バッターは確実にボールを叩きにきていた。
だが、結果的にホームランになった。
それは、彼のボールにキレがありすぎた為に出た奇跡のホームラン。
バックスピンの回転により、重力にも負けずボールは落ちなかった。
それが結果。バットの真芯に当たっただけの事。
実力でもなんでもなく、ただの偶然。
もちろん勝負は勝負。バッターは勝ったのだ。

ただ、もう、あのボールはもう生涯一生こないだろうと思った。
生涯最後のボールを彼は本当の意味で打てなかった。

振り返ればグラウンドは砂埃が舞っていた。
相手のベンチにはもう誰もいない。
ただ四番バッターはいつまでもピッチャーマウンドを見つめていた。


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