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ぽすと・すくりぷと



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訣(袂)別



外では金属バットが野球ボールを弾く音が同じ間隔で鳴っている。
野球ボール使い込まれていてとても白球とは言えなかった。
響く音の余韻の最中にバックグラウンドのネットへと捕まり地面へと落下した。

山口は思いのほか直ぐに見つかった。
廊下を突っ切った先にあるベランダ。寂れた喫煙コーナーだった。
どうやら山口の方は、こちらが山口自身に気が付いたとは思っていなかったようだ。
追いかけて、そしてどうすればいいのかという単純な疑問に直面する。
結局僕は中身のない人間じゃないかと錯覚するくらい。
でもこれが錯覚でもそうでなくても、人間は何かしらの事情を持って生きている。
事情もなにもない人間なんていないだろう。

「実像と虚像」

僕はポツリと呟いた。
実像が存在するからこそ、虚像という裏側の形が成り立つ。
当たり前のようで、なんだか理解できない話だ。
その言葉を聞いたのかも、教えてもらったかも今では思い出せない。
でも何かしらこの言葉が僕に焦りや哀しみや様々な感情を齎している。
では山口は実体をもった何かなんだろうか。それとも虚ろな何かの入れ物なのか。

そして僕自身も何者であるのか分かりもしない。

「山口」

僕は彼女を呼ぶ。それはとても小さな声で、必要以上も以下もない声で。
つまりは山口にしか聞こえないように、そして山口しか必要のない言葉。
山口は少しだけ肩を揺らした。
廊下からそのまま進んだ先にあるベランダはひんやりと静まり返っている。
木材を切り倒してできた椅子に机も存在感がない。
ドアから先が世界からぽっかりと切り離されたように、空気が止まっていた。

「いつかは死ぬとは思っていた」

言葉をひとつひとつ丁寧に選ぶように彼女は話し始めた。

「それは両親の事?」

当たり前の事を僕は聞き返す。

「そうじゃないかもしれない」
「“死ぬ”っていうのはさ、つまりは実体がなくなるって事?」

山口は一つ間を置いた。

「ねぇ春秋君。本当にね、私は客観的に見て両親を失った同い年の人に比べても全然悲しんでないと思うの」
「客観的に比べて」

僕は彼女の言葉を深く慎重に吟味する。

「でもね、たぶん失ったと思うの。悲しさを。だから悲しくないのかもしれないね」

それは山口の両親が死んだことによって、山口自身も何かが死んだのだ。
生命ではない何かが死滅した。

「不謹慎かもしれないけど、不思議な気分なの」

僕は山口の会話をしっかりと聞きながらも、同じ立場だった僕自身を回想した。
瞼の裏から薄暗い汚れた水が注ぎ込むように、濁った色のコンタクトをするように色が失われる感覚。

「でも、仮定として山口は悲しみというものを失ったとする。だとしても君は呼吸をしているし、手足はきちんと動いている。自立している」
「自立している」

今度は山口がその言葉を繰り返す。

「少し脇道に逸れた」

レッドヘリング。
主題が大きな田舎道だとしたら、路傍に転がった石の事。
僕は一つ深呼吸をする。

「山口、少し聞いてくれ」

一区切り。頭の中でグラスに入った氷にヒビが入るような音が響く。

「僕は個人的に山口の事に好感を持っている。
それが恋愛感情とか友人としてとかそういうフェアネスかどうかも分からない曖昧な事を省いて。
そして秋桜にも。でもそれは個人、単体では成り立たないものなんだ。
環境と言い換えてもいい。つまるところ僕は今までの関係や状態を少なくとも維持したいと思っている」

環境が変わる事が必然でありながらも、それを踏まえたうえでの話だ。

「だから、僕は逃げない。今回に限りだ。次は逃げるかもしれない。約束も何もできない」

言葉通り何もできないかもしれない。
そもそもが逃避行の始まりとも言える此処までの僕の行動。
逃げたからこそ、逃げられなくなった。
逃げなかったからこそ、逃げ道は失われた。
そのどちらでもあったのかもしれない。
初めから逃げ道はなかったし、逃げる手段や方法もなかったかもしれない。
すべて仮定の中の話だ。
でも、そういった仮定を積み重ねながら、そのどれかが実態を持つのではないのだろうか。

「正直に言おう。僕は山口を慰める事もできないし、手を差し伸べる事もできない」

だとしたら。

「だったら自分から手を出せ」

人生はドラマ。そんなメタファーは僕には要らない。
僕は決別する。山口にではなく、自分に、だ。

切り離された世界から僕は戻る。

廊下では何人もの生徒とすれ違ったにも関わらず顔を一つも覚えてはいなかった。
そして僕はふと思う。
もしもこれが物語となって誰かに読まれるのならば、僕はひどく落ち込むだろう。
この物語に登場している僕自身に向かって苛立ちを覚えるだろう。
いいから早く作業に取り掛かって、名探偵のように事件を解決しろという感じに。

「やれやれ」

これも自分に向かっての失望が声になって口から出た言葉。
ようやく、推理パートに入るのかと。


■ぽすと・すくりぷと 05
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